還暦に 我が天職を思う
片山恒夫
片山自身による要約
「医業とは,医学とは,医療とは、医とは、医者とは何か、歯医者になるつもりで、歯医者として、また歯科医で終る心算りでいる者にとって、それらの事柄はいつもはっきりしていなければならぬ筈だが・・・
専門学校に入って間もない頃、早く考えをまとめなければならぬと気がついていたものの、当時すでに歯学、医学教育は細分化され、生理学、解剖学・・・等々の学科がただ授業のため、試験にパスするための授業としてだけのように、それぞれに進められていて、根本の“医”とは何か、と考える“医の哲学”の時間は1時間もなかった。
教授される学科が次第に理解されるにつけ、今日まで自分自身が治療を受け、体験してきた歯科医療の内容との間に何と大きな開きのあることか。
全く繋がりのない異質のもののようにさえ感じられ、なぜこのよりなことになるのか,その理由を理解しようとして当惑している時、この格差、断絶に対し指導者から得られた回答は、「学問と実際」「理想と現実」その間にこそ生活の糧があるという答であった。医療とはこれでいいのか。
どうしようもなく、またこの道を自分達も進むのか、との思いで永らく自閉的な時を過ごしたことが忘れられない。医学教育の要と思われる「医とは何ぞや」「医療とは」「医者とは」について考究する講座は勿論,討議の場すらないままに卒業、歯科医師としての認定が与えられ、臨床医として世に立った時、これらの根本課題について自信も信念も持ち合せていなかったことと、その後の長い期間、臨床医としての理念の確立と実践のパターン決定のために、非常に苦しい足掻きを続け、ひたすら理想と現実の谷間を埋めようとする強情さに、多くの患者がまた友達までもが去って行ったことを誠に残念に思い返される。しかし貫き通した努力を省みて、密かに誇らしくも思っている。」
と述懐しながら、
「歯科医学は医学の1分科、医学は疾病治療の学問であり、予防、健康維持増進の学問でもある。
医学は、理論であると同時に技術である。
技術の伴わない理論、理論の裏づけのない技術、共に医療としては成り立たない。
理論と技術が両立していなければ、満足な医療を望むことはできない。
医療を離れて医者はない。
ここで理論として注意しなければならぬことは、人を生物とだけ見て、科学的にだけ病気の治療を考えるのでは十分でないし、技術としては、技術本来の自然界の事物を人間のために都合よく利用、制御、征服する働きとは異り、医学においては人が人に求められ、その人のための働きかけである点で、技術ではあるがその間の違いはまさに雲泥、その差こそ倫理ということである。」・・・とわが道に対する考えを述べ、来し方の歩みと余生の覚悟について15,000字の小論を残している。
編集者の要約
『医の哲学』に値する授業がなかった。
学問と実際、理想と現実の格差・断絶、その間に生活の糧があるというのが、当時の指導者達の答えであった。臨床医になって、ひたすら理想と現実の谷間を埋めることに専念。
医学は、理論と技術が両立すべきであるし、
理論の注意点:人を生物とのみ見、科学的側面だけから対処してはならない。
技術:人間の都合で自然界を利用、統御、征服する技術とは異なり、倫理が介在する。医療に当たっては、患者を国家試験委員と見立て、理論と技術共に最善を尽くすのみならず、協調的で愛情のこもったものでなければならない。
ここで医療行為の望ましい効果を上げるために、
① 患者自身の療養行為②医者を補助する看護者の重要性を謳っている。(歯科医療においても全く同じ)
歯牙疾患の特異性:自然治癒力、自然回復力の欠如⇒修復物の継ぎ足しによって初めて治療が完成する。医科では外科学で義手・義足の製作技能の訓練はない。
眼科学で視力補正レンズの調整技術鍛錬の授業はない。
耳鼻科で難聴のための補聴器製作技術指導はない。
歯科のみ、修復物作製の実習教育時間がすべての基礎医学教育時間より多い。
修復物は治療行為の一部 ⇒ 歯科医自身が行うべきである。
また歯科治療行為の多くは指の器用さ、技術の鍛錬が必要不可欠である。歯槽膿漏:歯を取り巻く歯槽骨の消失が特徴、これもまた治療によって元通りに回復する事は殆ど無い。
治療の目的:吸収をくい止め、僅かであるが歯槽骨を修復する事、そのためには、原因除去と歯肉と骨の回復力を旺盛にすることである。
ここで初めて、患者の療養・養生、看護者の的確な指導が必要になる。
独善に陥らないためにも学会に参加し、発表し、理解し、批判を受ける事。講演等の依頼を数多く受けたが、時間的制約や講演による啓蒙の限界等を勘案し、熱心な人材をのみ対象に、研修設備を準備し実地研修するシステムを構築した。
『趣味というならば掃除とでも答える以外にない無心に掃除する作務の心』と結んでいる。
還暦に わが天職を思う
1971年(昭和 46年)正月
全文
齢60、還暦の年、人並みにいろいろの人達から励まされ、注意され、祝われもした。思い返せば歯科医として世に出てから臨床一途に38年、この場所に移転開業してからすでに15年が過ぎた。
振りかえってみると誠に瞬時、それもあれこれ慌ただしい内に過ぎ去った思いがする。とにかくよくもやって来たとの感が深い。これからふた廻り目の暦の上をどのように過ごしていくか、この際、過ぎ来し方を振り返り、天職に対する私の考えをまとめてみることは、今後、幾許かの時を又一層努力してゆく支えとなるであろうし、今日迄ご支援下さった多くの方々に、心からのお礼のご挨拶ともなるであろうと思い、筆をとることにした。
ご叱正賜ることができれば又幸いである。
歯医者としての第一の任務、臨床医の立場を一時も離れることなく、そのあいだ中欠かしてはならないと臨床部門の研究に努め、公衆衛生活動に励んできたが、思い返してみるにつけ、その根本の医業をどのように考えてのことか、まずこの辺から始めなければならないと思う。
医業とは、医学とは、医療とは、医とは、医者とは何か。
歯医者になるつもりで、歯医者として、又歯科医で終わる心算心でいる者にとって、それ等の事柄はいつもはっきりしていなければならぬ筈だが‥‥。
専門学校に入って間もない頃、早く考えをまとめなければならぬと気づいていたものの、当時すでに歯科医学教育は細分化され、生理学、解剖学、細菌学、組織学、治療学、生化学等々の学科が、ただ授業のため、試験をパスするための授業としてだけのようにそれぞれにすすめられていて、根本の医とは何かと考える医の哲学の時間は1時間もなかった。
教授される学科が次第に理解されるにつけ、今まで自分自身が治療を受け、体験してきた歯科医療の内容との間に何と大きな開きのあることか、全く繋がりのない異質のもののように感じられ、何故このようなことになるのか、その理由を理解しようとして当惑している時、この格差、断絶に対し指導者から得られた回答は、「学問と実際」「理想と現実」その間にこそ生活の糧があるという答えであった。
医療とはこれでいいのか、どうしようもなく又この道を自分たちも進むのか、との思いで永らく自閉的な時を過ごしたことが忘れられない。
医学教育の要と思われる「医とは何ぞや」「医療とは」「医者とは」について考究する講座は勿論、討議の場すらないままに卒業、歯科医師としての認定が与えられ、臨床医として世に立った時、これらの根本課題について自信も信念も持ち合わせていなかったことと、その後長い期間、臨床医としての理念の確立と実践のパターン決定のために、非常に苦しい足掻きを続け、ひたすら理想と現実の谷間を埋めようとする強情さに多くの患者が又友達までもが去って行ったことを誠に残念に思い返される。
しかし、貫き通した努力を省みて、密かに誇らしくも思っているし、今では私なりの考えを大学で学生に講義し、卒後研修として求められ、度々講演もしてきているのでそのあらましをまとめてみる事にする。
歯科医学は医学の一分科、医学は疾病治療の学問であり予防・健康維持増進の学問でもある。
医学は、理論であると同時に技術である。技術の伴わない理論、理論の裏付けのない技術、共に医療としては成り立たない。
理論と技術が両立しなければ、満足な医療を望むことはできない。
医療を離れて医者はない。
ここで理論として注意しなければならぬことは、人を生物とだけ見て、科学的にだけ病気の治療を考えるのでは十分でないし、技術としては、技術本来の自然界の事物を人間のために都合よく利用、制御、征服する働きとは異なり、医学においては人が人に求められ、その人のための働きかけで、ある点で技術ではあるがその間の違いはまさに雲泥、その差こそ倫理ということである。
自然を対象とする場合のように、医療を求める人を自分のために利用することは許されない。医者と患者の間の働きは、道徳的、倫理的でなければならない。
医者に対する信頼感を基盤として、倫理的な行為が生まれ、倫理的な行為に対して信頼感が培われる。
倫理的であることとは、相手を尊重することともいえる。
尊重すると見せかけ、いかにも言葉巧みに、下にも置かないような慇懃な振る舞いは、実は反対の内容を隠していることが多いと千数百年も前から注意されているし(巧言令色鮮仁)、いくら患者の要求だからとて、理論的にも技術的にも全く不十分で、結果は良くないことを知りながら、たやすく迎合することは、相手を尊重すると見せかけ、患者の心情を巧みに利用し、己の悪心と怠慢を美徳にすりかえる詐術というべく、正に倫理に相反するものといわざるを得ない。
又、医の理論と技術を治療のためにのみ実践し、再発を十分予知しながら、不十分な、ごく簡単に放置するにも等しい指導で済ませるなども、一般人の常識的な要求を利用しての己を利する行為というべく、又真剣に努力するとしても、その理論と技術が遠い過去に葬り去られたような内容であったとするならば、それは信頼を裏切る行為といわざるを得ないであろう。
医療に当って、医者と患者の問に行なわれる総ての行為は、倫理を基礎として行なわれなければならないが、これを最も端的に例えてみれば、患者を厳正な今年度国家試験委員と見たて、理論と技術共に及第するものでなければならないし、その上熱心な努力だけでなく、親友に対するが如く協調的で、愛情のこもる行為でなければならぬということができると思う。
医療は医学の実践、患者と医者との問の医学的行為、医者の持つ医学の理論を基礎とした練磨した技術でなければならないが、ただそれだけでは満足な医療、望ましい効果が上がるとは決して言う事は出来ない。
・医者の指示を完全に守り、医者・看護者に総てを正しく告げる患者自身励行
する療養の態度
・患者を守るために必要な療養の監督、指導と手助け
・医者に対しての技術的援助と、詳細精密な患者看護の報告による助言
この三者三様のどれが欠けても満足ではない。
甘え心で我儘を通そうとする患者は医者を己のために隷属化、愚鈍化しようとするもので、そのような人間関係の基盤に倫理的な行為は成り立たないし、療養の指示を無視し、偽りを告げるなどの状態からは当然良い結果は生まれてこない。
歯科医療の場合も治療を目的として患者に接する場合が殆どであるが、歯科医学の目的は治療だけでなく、予防、再発防止、健康増進を目的としているだけに、歯科医療は歯科医学を実践するのでなければならないから、治療を求める患者に対しても、歯科医学のその他の目標を確実に実践しなければならないし、医療の正しいパターンにそって適確な効果を上げなければならない。
一般歯科医療には、このような医療の正規のパターンはほとんどみられなかった。即ち、従来の歯科医療は全く特異変則的であった。
その理由の一端として食習慣等の生活環境が、口腔諸疾患の発生と悪化に影響しにくく、悪くなりにくい状態にあったことと、平均寿命が20年近くも低かったことなどがあげられようが、決定的な条件は、体の中での歯の持つ特異な性質にかかっているといえる。
歯牙疾患の特徴と、それがために従来歯科の特異な医療の形が生まれたこと、又近時、数年来現代生活に適応する近代歯科医療などといわれる歯科医療の内容に変わってきた理由は、歯科医学の進歩に関係してはいるか、それにも増して医の理念に深いかかわりがあるように思われる。
人の体の中で一番硬い歯も、ほんの少しの暮しの不注意から溶けて穴があき、むし歯となるし、歯肉が弱って歯槽膿漏を起こす(国民の80%以上罹患)。
上下28本の歯のどれが痛みだしても食事はおろか、寝ることすらできなくなる。痛み止めだけだと再発を重ね、重症となり、顎の骨の中に化膿が進み、歯はひどく腐って欠けてしまう。
歯肉の手当を怠ると、長い間膿が漏れ出て全身的な病気の原因となるし、無傷の歯でもぐらついて役に立たず抜け落ちる(歯ぐきの病気は建物の基礎。
土台がくずれることに似ている)。このようではよく噛めないので、喰うものがまずく食欲も落ち、消化も悪く、こうなれば体力はめっきり落ちてしまう。前歯一本悪くても、食事に不都合なだけでなく発音は障害されるし、表情が乱れ、誠にみすぼらしい。
平気で生活できる人はまず少なかろう。ただ噛むことだけ、生きるためにだけあるのではなく、発音表情などの人間としての暮しのために役立っていることを注意しなければならない。
むし歯の痛みは、我慢ができない程強烈な点も特徴といえるし、老若男女の別なく体験するということも特異な病気といえるが、口の中のバイ菌がかたまり、こびりついて棲息するために、さしもの硬い歯も犯されて軟らかくくずれて、穴があくし、欠けて無くなる。
この溶けたり、欠けたりして歯そのものの一部が無くなる組織の実質欠損と、バイ菌の巣のような犯された牙質をきれいに削り取って、薬をつけたり、いくら養生したとしてもそれだけでは治るどころかどんどん病気は進行してゆく。
自然に身にそなわっている悪くなった処を元の様に癒そうとする自然治癒力の完全な欠除とが歯牙疾患の一大特徴である。
病気の進行を防ぐ為にも痛みを止め、崩壊を食い止め、噛む能力と外観を回復するためにも切りとった欠損部に歯と同様な人口の組織を継ぎ足さなければならない。
つまりどのような場合でも修復物の継ぎ足しによって初めて治療が完成する。
いいかえれば他科における薬や自然治癒力を助ける療養に匹敵するものといえるこの修復物の製作は、治療の重要欠くべからざる手段の一つである。
機能と外観だけを回復するためのものだけであるならば、義手、義足の製作に似ている。
外科の教育の中に義手義足製作についての技術の練磨のための時間はない。眼科においても視力補正のためのメガネの調整に対する技術練磨の時問はない。
耳鼻科における難聴に対する補聴器製作のための技術練磨の時間は用意されていない。
歯科医学教育の中での修復物作成のための時間は、基礎医学に対する時間の総てよりも上廻っていることは、治療のために欠かせない理論であり、技術であるからである。
治療は医者が行うもの、従って修復物は治療行為の一部として作成され、装着され組織の再生、癒着に代えようとする治療行為であるために医者自らが行わなければならない。
総ての修復物作成は治療行為の一部であるために他の治療技術と同様又それ以上に細心の注意と不屈の努力と絶えざる練磨がなければ、自然の組識に代わる修復物が生まれてはこない。
物を物として見、物を作るだけの気持ちで修復物を製作する態度と技術は、生体に害を及ぼす異物を作りだすにすぎないであろう。
又痛みを和らげ病気の進行を食い止め、病状悪化を坊止するためには塗り薬や、のみ薬では不可能であるため、痛みのために心身共に憔悴し、ただそのことだけに意識が集中して気持ちがいら立ち、極端に神経質となって処置の痛みを体全体で恐怖しているような特異な状態の患者に、口の中で硬い歯に一分問何十万回転もするドリルで小さな穴をあけたり削り取ったりしなければならない。
しかも一度だけでは済まないために全身麻酔で眠っていて無知覚な状態で手術するのとは違い、その様な状態で絶対間違えないように最短距離で治療を進めなければならない。
だから指先が自分の考え通りに動いてくれねばならない。
歯科の医療の中で技術が大変重要な所以である。即ちどんな立派な知識をもっていてもそれだけでは満足な医療は行えない。
修復物、補綴物の製作を、知識や機械の進歩発展だけに頼り、ただ器用に技術をこなす者に委ねることは治療に際しての技術の腕を鈍らせ、ひいては歯科医療の本質を忘れ、客商売の経営者に堕す結果に陥り易い。
再三述べてきたように修復物、補綴物は治療行為の一部であり歯科医がやるべきもの、しっかりした医の心がまえの上に、練磨した技術によってこそ初めて害のない自然の生体組織のようにできあがるものである。歯科は技術の練磨が得に重要である。
歯ぐきの病気の代表的歯槽膿漏症は、痛みを感じることなく全身に悪影響を及ぼしながら次第に重症となるが、歯を取りまき支えている骨(歯槽骨)がとめどもなく消失することが特徴で、これまたどのような手当をしても、完仝には元通りにすることはできない。
体の中で一番硬い歯の病気、むし歯の治療は、なくなった組織の代わりをする修復物の装着によって初めて治療が完了することは前に述べた。
このことはむし歯は、実質欠損が必ず伴うというよりも、実質欠損そのことが病気である。というような他に見られない状態と、その欠損部は修復物の装着、充填によって初めて治療が完了することは一般医科の治療のように薬剤によって病原を食い止めたり、回復能力を助けたり、又手術した後、養生により癒着再生できるような自然回復能力が全く欠けているためであることも述べた。
このことは歯科の診療が他科の診療にくらべ、全く異なってくる重要な原因であって、つまり歯を治すのに、患者が守らなければならぬ療養は殆どない。
又そのための看護者の必要も殆どない。
医者の行う硬い歯の治療だけしかない。
偏頗な歯科医療では特異な医療の姿になる。
従来の歯科は殆どそのようなものであった。
しかし口腔疾患のもう一つの代表的な歯ぐきの病気・歯槽膿漏は、歯を取り巻く歯槽骨の消失が特徴で、これ又治療によって元通りに回復することは殆どない。
どんどん歯槽骨の消失が進んで行くこの病気を治療することは、それを食い止め、ごくわずかであるが歯槽骨を修復させる事にある。
歯ぐきからの膿も完全に止めなければならぬ。
歯のグラグラも出来るだけ元の様にかためなければならない。
その為には原因を除去する事と歯ぐきと骨の回復力を旺盛にすることが第一の治療法である。この為には患者の正しい療養が最も効を奏する。
歯槽膿漏の治療には又再発が問題であって、再燃防止と再発予防に完全に成功するのでなければごく短期間に、元通り悪くなる。
この再発予防も患者の養生、衛生の心掛けいかんに依るので十分な指導が必要である。従って歯ぐきとか、歯槽骨とか、口腔粘膜などの歯周組織の病気を治療する場合は、内科・外科その他の医科と同様な診療態度が必要で、即ち正規の医療のパターンとなる。
従来の特異なものとは全く違う歯科医療の形となる筈である。往年の歯科医療は全く偏頗で簡単特異な形のものであった。むし歯の痛み、歯髄炎も簡単に神経を抜き去ることで痛みを止め、金属冠をかぶせて欠損を補い、歯槽膿漏の歯は老化とかたづけ、手当もせず抜き去り義歯を入れる。全く金冠・入歯屋といわれても返す言葉もない様な有様であった様に聞く。
近年、病理学、細菌学、補綴学等の発達に依ってこのような簡単な処置では痛みと噛みにくさをある程度は解決するが、病気は次第に悪化し種々の後遺症的な障害、例えば簡単に神経を抜き取る処置は痛みは少なくできるが、顎の骨の中に慢性の病気を進ませ、その為全身的な病気、例えば心臓を弱めたり、関節その他に病気を起こす原因となることなどが判ってきたし、簡単に金冠をかぶせて治せば歯のまわりに悪影響を及ぼして、歯槽膿漏症を引き起こし、全身に害毒を与え、又一本二本と抜けば、残る全体の歯の相互の関係を狂わせ、むし歯・歯槽膿漏の誘因を作り、顎の関節が不調になり、いろいろの神経症まで起きてくるし、手軽で簡単な義歯のためには残った歯がひどく痛めつけられまもなく抜け落ちる。
この様な原因と結果を明らかにしている。治しても、治してもいじればいじる程次から次と悪くなるようにさえ思われる有様はすべての患者の経験からもよく知られている通りであった。
そもそも20数本に別れている歯は、もともと上下の一組で最もよく能率をあげるために部分一本一本に分かれているのであって、どれか欠けても役に立たない。
つまり車の四輪は四つ揃っていてこそ役に立ち、一つ一つは別々に離れているのと同じて、ショックアブソーバーや懸架装置がしっかりしていてこそ本来の役目を果たせるもので、車輪を支えている小さな部品、ジョイント一つ欠けても安全な走行は保証できないのと同じである。
又いくらタイヤが新しく丈夫でも、車輪そのものがガタついていたのでは意味がない。
一本でも無くなると残った歯に過分、異常な負担がかかり、その上汚れを増したりするためにむし歯も増えるし、必ず歯ぐきの病気が起こり歯がぐらりいてきて、これまたいくら硬くてきれいな歯でも役に立たなくなる。
ぐらつくだけでなく、歯槽膿漏になると、絶えず膿が流れ出ていて、全身の病気の原因となるし、誠に不快な悪臭を放ち、あらゆる人に敬遠される。
そして問もなく抜け落ち、義歯を入れればそのためにまた数本の歯が間もなく駄目になる。
このように気がつくと、すぐ治療を受けていても次第に加速度的に悪化してゆく状態をどうして食い止めたらよいか、患者自身のためだけではなく、繰り返し益々拡がり、その結果は医者と患者の需給関係が破綻し、益々治療内容が低下し、どうしようもない程病人が増える。
なんとしてもこの悪循環を断ち切らねばならない。
医学技術の飛躍的な進展に期待をかけ、病気、病人が医者の手に負えない状態に増えているからとて、医者以外の手伝いを増やすことで解決しようとするのは益々医療を低下させ、病人を増やす結果となろう。
真に有能な医者を増やすことだけが解決策で、安上がりの間に合わせを増やすなどは生命の軽視に繋がる暴挙というほかない。
真に有能な医者とは、近代医学の第一の任務は予防の完成だといわれているように、医療においても治療だけでなく、あらわる機会に二度と繰り返すことのないように再発を防ぎ、予防のために患者ともども努力する医者である。
医者の予防についての努力なくしては、如何に治療について努力しようとも病気の減ることはない。
予防は医学の第一目標であり、医療の第一目標でもある。医者も患者も、医の本質とその原点に立ちもどり、適正な医療を守る事によってこの悪循環を断ち切らねばならない。
治療を受け待つ臨床医は、その治療内容がやがてより一層難症を引き起こすような治療法を、いくら手軽であろうとも、患者の切なる要望であっても決して行ってはならない。
例えば、腹痛などあらゆる痛みに麻薬を使っての鎮痛法は、麻禍のために早くから中止されていることをみても分かるように、歯科の治療では最も頻度の高い神経の治療、痛みを止めるための抜髄処置、簡単に神経を取ることを止めなければならない。
この我が国では非常に一般的で簡単に考えられている処置ではあるが、アメリカでは歯髄をいじらなければならぬような状態になれば、その処置の結果が全身的に危険な状態になりやすく、害のないようこ処置することの困難さから全部抜いてしまう状態が昭和の初期から最近まで続いていたが、その後、高度な技術によれば保存が可能であることを再認識し現在では神経をとって治療し、歯を抜かないで無害に保存する専門医が活躍している。
むし歯の治療のためには、どのような場合でも悪くなったところを切り取った組織に、誠に巧妙な自然の組織そのもののような修復物が、直に繋がって装着されなければならない。人体組織の仕組みの神秘と、科学の限界を考えれば完全なものができるはずがないことは誰れしもよく分かっている。
一般に行われている金属冠をかぶせて治す方法等は即刻止めて害のない方法に変えねばならない。
かぶせて治すのに用いられる金冠は、板金を曲げたり、圧印して噛み合わせの面の凹凸を作ったりして、これを蝋着することによって縫成して作り、非常に簡単でブリキ工のような技術で問に合わすことができる。
しかしこの縫成冠は歯ぐきの部分に不適合な箇所ができたり、噛み合わせの面が高すぎたり、低くて合わなかったり、自然の歯とは似ても似つかぬものしかできない方法なので、従ってその歯は勿論、前後の歯と噛み合う相手の歯をぐらつかせたり、むし歯をこさえたりする不十分な治療法であって、このことのために我が国でも昭和の初め、今から40年も前からすでに新しい合理的な方法に替えねばならぬことを教育されてきた。
その改善、進歩した方法というのは、完全な形態修復と適合を可能にする鋳造法によって作りあげる方法であるが、当時はまだ非常に高度な技術を必要とするだけでなく、実用化するのにはあまりに煩瑣にすぎる方法であったため、この方法に替えることは殆ど行われなかった。
しかしできあがったものは縫成冠にくらべて全く格段の性能を発揮できるものであるために何としても実用化しなければならぬことから、技術的に習熟するだけではなく、材料方法についても日常化するための研究が必要であった。
このような学問の日常実際化のための研究とでもいうべき部門が、我が国の医学界、医療界の問に是非必要で、この研究のためには日常臨床に携わる者が主体とならなければならないことに気がつき、研究的な日常がそこから始まったといえる。
新しく改善された進歩した学術が日常化されるまでには、それに必要な技術の習得だけでなく、それ以上に困難な問題が数々ある。進歩した医学、技術の内容がすぐさま日常の臨床に導入されることは、直接生命をおびやかす恐怖を背景とするために万人共に希望する。
しかしどのような場合でもそれに要する費用は喜ばれるものではない。
死のかげりの感じとれない歯科疾患の治療には、その方法の良し悪しよりも、まず治療費の方が問題であったし、歯を金で飾ることが好まれていた風潮が認められる状態の中で、金属冠の為害作用を説明し、その方法による治療を断る歯医者は(今では決してめずらしくはないが)全く異端視された。
歯科の経営の中でドル箱視されていた金属冠治療を悪し様にいうとて、同業者の間から敵視されることも露骨なものであった。その他いろいろの障害が重なりあったが、未だに一歯の縫成冠治療も行わず現在に及んでいる。この事実・この自負が力強い心の支えとも、又私の明日の行く手を決める大きな道標となった。
私の一生の大半はこの問題に取り組むことに費やされたと思う。
この金属冠治療の問題からみても、学問の進歩と実社会の繋がり、即ち医療内容の改善向上は、臨床を受け持つ現場医師だけの力では、一般社会に定着し、常識化した医学上では否定された過去の術式であっても、歯科においては改善することが至難の技とまで思われる。
正しい常識を涵養して社会的な要求を正常化しなければならない。
それには現場担当臨床医の力だけでなく、医学者とも協力して啓蒙の活動がなされなければならないことが切実に感じられる。臨床現場を担当する者は間違った医療、為害作用があることがわかった方法を行ってはならぬが、昨日の正しい方法が必ずしも今日正しいとはいえぬことから、例えばチクロの問題もそうだし、サリドマイド、キノホルムを考えてみても明らかなようにこれに類した問題は多く、毎日のように進歩する学問についてゆくだけでなく、あらかじめこれらを予知し、見通すだけの見識を持たなければならない。
そのためには自らが研究者の立場に立ち、経験(業績)を重ねて初めて可能になることはいうまでもないであろう。つまり遅れることも進みすぎることも共に間違いで、自分だけの経験、或いは考え方で行動することはそのどちらかに陥る危険性が多分にある。必ず学会に聞き、発表し、理解し、批判を受けなければならない。
つまり研究者としての立場に立っていなければならない。自ら研究者の中に立ち混じり、同調の協力を得、啓蒙に勉める事に依って学問の進歩に伴った実社会における歯科医療・歯科医学の倫理的な実践が行われると思い、現場の問題点についての研究をまとめ、学会に発表し続け、直輸人的翻訳的研究ばかりでなく、臨床現場からの実践についての方法論的研究の必要性を強調して賛同者を求めることに努め、保健所活動を啓蒙の場とし、学校保健活動に保健衛生推進の実践の場を、医療実践の場として市立病院歯科に立った。
前後十年、このような努力に対し豊中市の功労者表彰を受け、学会では日本口腔衛生学会に評議員として、日本歯周病学会には理事として推薦され、研究者としての地位と職務を与えられている。
前にも述べたように、5、60年前までは歯科医学の内容も、歯科医療の実際もごく簡単、幼稚なものであった。
それは医学発達の基盤である科学の進展度もさることながら平均寿命人生僅か50年といわれた時代で、暮しも貧しかったし、歯科疾患に直接関係のある食生活は蔗糖の摂取量も少なく、主食米麦の精白度等の関係から、むし歯の発生は低率であったし、むし歯のできる時期が遅く、寿命が20年も短かったことから社会の要求度が低かった為でもあったであろうが歯科医の天職に対する考え方にむしろより大きな原因があったのではなかろうか。
その後1930年の世界大恐慌の影響等もあって、長らく生活の貧しさが続いたためか、歯科医療の内容は依然として低俗なまま続いてきた。貧しさの為に医学的に正しい内容を持った正規の医療が受けられない。
と云う事は医者としてもほっとける問題ではない。
しかしその間に先進国の歯科医学の内容は次第に進歩し、我が国の学問内容もそれにつれ進んできて教育内容も進歩してきた。このような関係からますます教育の内容と実社会における医療内容との間に大きな格差が生まれてきたようである。
敗戦を契機に我が国の状態は一変した。 20年そこそこの問にめざましい生産性の向上に伴って、生活は豊かになってきた。
死亡率の減少、青少年の体位向上、平均寿命の延長は、医学、医療が進歩した結果とみられるであろう。
歯科医学教育は大学教育に昇格し、一回生は卒業後10年を過ぎた。
新しい内容を頭につめ込んではいるが医学の哲学についての講義は旧制時代と同様1時問もなく、技術練磨についても不十分なまま、臨床に携わる結果はいわずもがなの状態となる。
その中で心ある者達が相寄り、盛んに研修活動を始めるようになり、その盛んなことまさに空前といえる。
研修によって解答を得ようとする人達が増えていることは、従来の医療のあり方に行き詰まり、新しい方向を求めようと足掻いている姿、それをみるにつけ過ぎし日が思われる。
それぞれに自分かやってきた医療の形はなかなか変えられるものではない。
早く考えをまとめてほしいものだ。
長い問の歯科医療の悪弊が、乱診乱療、1時間待って1分の治療の姿までになっている現状は何としてでも直したい気になるのは医者も患者も同様と思う。
受け持った患者に務めを果たしてから、次の患者を受け持つ。前に述べたように正しい治療法を行うだけでなく、その病気がどのような原因で起こってきたか、口腔機能全体の中でどのように悪くなっているか、つまりその他の気が付かないでいる病気がどのように進みつつあるか話し合うこと、全体の早期治療の実施計画を立てながら、治療を無駄なく適確にすすめる話し合い、そのためにはどうしても治療計画に従っての時間の予約が必要となる。
診療の予約は、このような意味から必要になるので30年も前から行っている。
市民病院にいた昭和30年頃、時間の予約制で診療していたのは、公立病院では初めてのことであった。
当時はなかなか守ってくれなかったこの制度も今では違約する人も殆ど無くなって来た。
それは目的が診療を確実に有効にするためのものであることが十分理解されて来た為と思われるし、従って僅かな遅刻さえ自分だけでなく多くの人達に致命的な迷惑を与えることが理解されたためと思う。
とにかく十分用意し計画した時問の中で、予防については早期治療、再発防止については完全な理解をすすめ、日常生活の中で確実に行える療養の方法を決定。
後日その成績、効果を判定し、方法の再検討と治療の結果の修復物の摩耗破損などの発見、新しい病気についての早期発見などのための定期検診の打ち合わせが必ず行われる。
病気の原因理解については、原因になる細菌類を顕微鏡下で見るだけでなく、拡大しテレビ画面で検討するなどして確実な知識理解を基礎にした療養の実行方法を定めるなどが肝要である。
このような診療の内容とパターンが、すでに長く行われていることが研修者たちの注目の的になり再三講演を求められるが、そのこと、その運びを根本の考え方から一つ一つの症例についての記録写真を追っての説明など、大学の臨床に求めることのできないような、十数年にも亘る長期観察を基礎に臨床の在り方・運び方を話してはいるが、やはり実地にその場で、その時々の有り様を見聞きして説明を受けることが望ましいし、再三遠くにまで呼び出されることは、自分の臨床にも差しつかえてくるので、最も熱心な人を手許に集め、実地に習練することを計画している。
そのため研究所内に宿舎を増設し、寝食を共にし、四六時通しで研修するつもりでいる。
しかし、多くの人がやろうとしてできなかったからでなく、望まれ求められて来た点も考え、真に志を同じくする人達の求めに応じてだけ行う態度をとるつもりでいる。主体はどこまでも、診療にある。
長々と来し方のあれこれを、我が医業を、在り方を、どのように考えているかについて思い返してみた。
その在り方、パターンを守っての日常は、常にとどまる事のない医学の発展と進歩に寄与する為の研究であり、実践でしかない。
幸せにも、新しいふた回り目の人生を迎えた私には一生涯をかけて没頭できる歯科医という天職を持ち合わせている。
その天職そのものに没入し、そのことに楽しみを見出す以外にはない。
あえて当世風にレジャー、趣味というならば掃除とでも答える以外にない無心に、掃除をする作務の心、まことに結構と思う。
僅か数個の漢字、送り仮名を修正しました。(編集者)
豊中市の功労者表彰状
保健所活動を啓蒙の場とし、学校保健活動に保健衛生推進の実践の場を、医療実践の場として市立病院歯科に立った。
片山歯科医院
この度、増改築したこの建物は、約10年前に分院予定地として東豊中地区に用意していた土地を、隣地に敷年前歯科医院が出来た為処分し、研究所内に研修者の為の設備を主目的として僅かの宿舎も含め増改築したもので、場所がら防震防音防塵に特に留意した。
施工は(株)あめりか屋がこれに当たった。何分20敷坪の敷地であり、建物のための出入り、材料搬人目は2米少々、材料置場等一切なく、その上診療を続けながらの工事であった為に種々の困難にたえ竣工できた事は、近隣のご好意もさることながら施工者には心から尊敬と感謝の意を表すべきものと思う。